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川崎36景

第29景 お化け灯篭

緑に囲まれた川崎市青少年の家
緑に囲まれた川崎市青少年の家
宮前区宮崎から、高津区梶ヶ谷にかけての丘陵地には、陸軍東部62部隊が敗戦までの3年間あった場所です。

現在の宮崎中学校の場所には部隊の本部が、そしてその隣にある川崎市青少年の家の場所には、将校の集会所があったそうです。
門を入って少しいくと、こんな看板が…
門を入って少しいくと、こんな看板が…
青少年の家の門を入ると右手にこんな看板がありました。

なになに…

右にいくと「武蔵野音頭の碑」、左にいくと「お化け灯篭」、と書いてあります。

お化け灯篭とは気になりますねぇ。。。。
看板のすぐ右手奥に見えるのが「武蔵野音頭の碑」。
看板のすぐ右手奥に見えるのが「武蔵野音頭の碑」。
武蔵野音頭の歌詞が刻まれていました。
武蔵野音頭の歌詞が刻まれていました。
建物の入口付近。<br>きれいに植えられた色とりどりの花。
建物の入口付近。
きれいに植えられた色とりどりの花。
お化け灯篭って、なんだろう??

とにかく見てみなくちゃ。

矢印の指す方向、建物の裏へ回ってみましょう。

こうしてみると、青少年の家の庭にはいろいろなものがありました。
長野県富士見町から寄贈された岩石を中心に作られた庭園。
長野県富士見町から寄贈された岩石を中心に作られた庭園。
越前焼きの故郷、福井県織部町の陶芸家7名が協力して焼き上げた作品「つどいの広場」。
越前焼きの故郷、福井県織部町の陶芸家7名が協力して焼き上げた作品「つどいの広場」。
建物の裏にも小道があります。<br>まさか、灯篭が歩く道…!?
建物の裏にも小道があります。
まさか、灯篭が歩く道…!?
裏側を半分回ると、広場が見えてきました。
裏側を半分回ると、広場が見えてきました。
バスケットゴールやベンチのある広場です。
バスケットゴールやベンチのある広場です。
運動場に出てきちゃったよ。

お化けの出るような雰囲気じゃない、明るい広場です。

ねえ、お化け灯篭はどこ??
矢印のあたりにちょっと顔出してるみたいに見える…あれかな?
矢印のあたりにちょっと顔出してるみたいに見える…あれかな?
ベンチの後ろの緑の影に、ちょっと首をかしげたみたいに覗いている石の何かが見えます。

さあ、こわがらずに行ってみよう!
いた!
いた!
お化けというからにはもっとおどろおどろしい感じなのかと思ったら、丸みを帯びた石でできたちょっとかわいらしい形。
なぜこの灯篭がお化けと呼ばれるようになったのでしょうか。青少年の家にある資料を見せてもらいました。
お化け灯篭のいわれ その1
もとは赤坂の兵舎にあり、夜な夜な赤坂・六本木周辺に出没するという噂があったので、部隊が川崎に移転する際に持ってきて、動かないように足の部分を埋めた。

お化け灯篭のいわれ その2
赤坂から移転してくる際に灯篭も一緒に運んできて将校集会所の庭に据えたが、この灯篭が夜な夜な動き出すという噂がたち、灯篭の下半分を土で埋め、現在に至る。

お化け灯篭のいわれ その3 なんで夜な夜な動いたか
この部隊から出陣していった兵士を乗せた輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没した後、広場の隅にある大灯篭が真夜中に歩いて戦場の兵士にむけて「帰ってこー、帰ってこー」と言っているという噂が広まり、灯篭が歩かないように土を持って固めた(萩坂昇「かわさきの民話」より)
わかりますか?大きさ。<br>足があったらそれはそれは大きかったんでしょうね。
わかりますか?大きさ。
足があったらそれはそれは大きかったんでしょうね。
どのいわれを見ても、やはり“動き回っていた”…とかかれています。

特に「その3」のお話には、ほろっとさせられますね。それほど兵士たちが恋しかったということでしょうか。

いろいろな説がありますが、

実際、足の部分が切断されてから移動してきたのか、切断されずに埋められたのか、などは謎につつまれたままなのだそうです。
しかしながら、この灯篭が、激しい戦争の時代を、そして現在までのこの時代を、見守り続けてきたことだけは確かです。
川崎市には、まだまだ謎がありそうですね…
これからも広場の片隅でみんなを見守ってね。
これからも広場の片隅でみんなを見守ってね。